Archive for the '日本語ブログ' Category

2012年が始まりました

01/09/12

早いもので新年最初の一週間が過ぎました。今年は数週間後に出産を控えているため、「今年の目標」と言われればまず「無事出産すること」が思い浮かびますが、同時に「毎日を意識的に過ごす」ことを心がけたいと思っています。「多くのことを成し遂げる」というよりは、いかに毎日、毎時間、毎分、あるいは毎秒を「今これをやっている」あるいは「こういう気分である」ということに注意を払って過ごせるか。つまり、”Be Present”ということですね。頭では理解していても、実践するのは難しいコンセプトですが、妊娠、出産、新生児のお世話という、ある意味自分ではコントロールできない要素が多い出来事を体験するチャンスを与えられているので、”Doing”が制限されることやその不自由さにイライラするよりも、”Being”により重きを置いた時間にしてきたいと思っています。

そんなことを考えていたら、ちょうど一年前に実際に初めてお会いする機会のあった堀正岳さんのブログ記事「人生3万日だと思ってはいけない」に遭遇しました。義理のお姉さまを亡くされるという突然の不幸に、改めて“There is only today” ということを思い知らされた・・・という内容でした。こうした突然の出来事を前にして、私たちにできることは、やはり今を大切に生きることです。言葉にすると本当に陳腐でありきたりですが、今の状況は永遠に持続しないということを忘れずにいること、あるいは毎日自らにリマインドし続けて意識的な生活をすること。たとえその時選ぶ行為が「横になって休む」だったり、「テレビドラマを見てリラックスする」ことだとしても、そういう目的をもっていると自覚しながら行うこと。長期的な計画や目標を立てるなということではなく、それを念頭におきつつ「その実現のために今何ができるか?」と、常に「今」に置き換えてみること。その上で「今」を心地よく過ごせているかどうか、過ごせていないとしたらどうすれば変えられるのか。状況をその時点では容易に変えられないのだったら「心地よくない」と感じる気持ちを変えられないか。そんなことを心がける年になりそうです。

夫婦、この不思議な関係

12/30/11
曽野綾子の「夫婦、この不思議な関係」を読みました。国際結婚成功コンサルタントとしてカップルのご相談を受ける私にとって、結婚そして夫婦についての著者の視点は大変興味深いものがありました。1931年生まれの著者が結婚した当時と現在の状況はだいぶ変わっているものの、「結婚とは」「夫婦とは」ということについて示唆に富むエッセー集ではないかと感じます。
****
特に私自身の結婚生活を考えたとき「これは共通するものがある」と思ったのは、曽野綾子が表現するところの夫の「冷たさ」についてです。再三「夫は冷たい」という表現で描かれている夫の特性というのは、「彼は私に何ら『変われ』という期待をしていない」ということでした。妻に「もっと~だったらいいのに」とか「~をしてくれないと困る」というような期待を一切しないということ。私の夫もこの点は非常に似ています。よく言えば自立しており他人に自分を幸せにしてもらおうとは考えていない。でもこの「個人主義」は、裏を返せば自分が変わることで相手が幸せになるとは信じていないとも言えるのでしょうか。曽野綾子の父親は、彼女の母親に対して「変われ」という期待があったために、母親にとっては気の休まらない結婚生活が長らく続いたとのことでした(後年、彼女の両親は離婚を選択)。この両親の結婚生活について、曽野綾子は「父親は心が温かかったからこそ母親を躾けたいと思っていたようだ」という表現をしています。「心が温かいからこそ他人に期待をしてしまう」というのも一理あるのかとも思いますが、そもそもは赤の他人であるパートナーと共同生活を送るのであれば、心が温かろうが冷たかろうが、常に自分に対して「変われ、今のままのあなたではいけない」というメッセージを受け取り続けるよりは、そのままの自分を受け入れてくれる人のほうが穏やかな気持ちで毎日を楽しく過ごせるだろう・・・・と感じます。
****
もちろん細かいことを言えば不平不満がまったくない夫婦関係なんていうものは存在しないのではと思いますが、結婚するまでの間に長い時間をかけて大人になってきている人間同士、根本の部分では「そのままを認め合う」ということがなければ、やはり楽しい毎日を送ることは難しくなるでしょう。自分がどの道を選択するにしても、結婚について思うところのある人は何らかのヒントを得られる本ではないでしょうか。

尾びれを無くしたイルカ”Winter”の物語

11/14/11

先日家族で”Dolphin Tale”という映画を見てきました。傷ついたイルカが尻尾切断という現実に直面、人間が人工尾びれを開発してこのイルカを救い、今では戦争や病気などで腕や足を無くした人々に勇気を与える存在となっているという、実際に起こった出来事をベースにした物語です。

映画のあと調べてみたところ、ストーリーの多くは映画用にドラマチックな効果を狙って作られたフィクションなので、”inspired by true story”という表現がふさわしいということでしたが、何と言っても実際に尾びれを無くしたWinterというイルカが映画でも自分自身を演じていて、そのことだけでもこの映画にリアリティを持たせています。

普段シーワールドでイルカを見慣れている子どもたちも、2時間近い長い映画に飽きることなく見入っていました。映画の主人公である11歳の少年がこのイルカと心を通わせ、一緒に泳ぐシーンなどは、改めてイルカという動物の知能の高さや美しさにはっとさせられました。また、映画では戦時下のアメリカらしく、この主人公のいとこが戦争で負傷し足に障害を負うという設定になっており、彼がイルカとの交流を通してショックから立ち直り前向きに生きていくというシーンもありました。この少年やいとこの存在などはフィクションですが、実際にイルカのWinterのもとには足や腕を無くした人々が常に訪れています。

映画の最後のクレジットが流れるところでは、実際のイルカを救出した場面や、人工尾びれを開発して試しているシーンなどの記録がドキュメンタリー風に挿入されていました。イルカを傷つけたのも人間なら、それを救うのも人間。また、今ではこの”WinterGel”と呼ばれる、Winterのために開発された物質が人間の義足にも応用されているそうです。

このイルカのいるプールにはウェブカメラが取り付けられていて、Clearwater Marine Aquariumのサイトから見ることができます。記事を書くにあたり調べたところ、日本でも実は同じような出来事があったことを知りました。ブリヂストンのサイトでは「イルカ人工尾びれプロジェクト」について紹介されています。

ストーリーや演技をというよりは、イルカのWinterを見に行く映画だな・・と感じました。家族連れには特にお勧めです。

ハッピーでないことを伝えるべきか?

10/25/11

前回の記事に書いた「50/50」という映画で、癌の宣告を受けた主人公のガールフレンドが最初のうちは一生懸命彼の世話をしていたのに、あるとき浮気をしていることが発覚してしまう・・・という場面がありました。彼女はもう彼と一緒にいるのはつらすぎるから別れようという会話をする勇気がなくて、浮気という行動に出たのですが、このことについて夫に「彼女は浮気する前に彼に正直な気持ちを話すべきだったのでは?」と言ったことから、浮気をしていたら正直に言ってほしいか?という議論になりました。

例えば自分が死の床にあった場合、パートナーが昔浮気をした(あるいは現在している)という話を打ち明けてほしいだろうか?という夫からの問いかけに、まあ、明日死んでしまうなら知らないまま幸せな記憶を持って旅立ったほうがいいかもしれないな・・・とは思いました。ただ、逆に「自分が浮気という行動に走るほどその関係に問題があると思っていたら、知りたいとは思わないのか」と聞いてみたら、それは確かに、言ってほしいと思う、とも。

先日も「浮気と、相手の携帯電話を内緒で覗き見することはどちらが罪が重いか」というテーマの記事を書きましたが、どちらにも共通するのは「(始めのうちは)パートナーに隠れてその行動をとる」という点です。どちらの場合も自分の気持ちを打ち明けたり、相手に直接問いかけたりすることを避けています。それにはさまざまな理由があるでしょう。よく男性側からは「自分の気持ちを打ち明けると彼女が感情的になり取り乱す」という声を聞くこともあり、聞かされる方(この場合は女性側)の取り乱したくなる気持ちも理解できるのですが、それでも、パートナーには、その関係についてどう思っているのか打ち明けてほしいものではないか・・・と私は感じます。多くのカップルは結婚に何を期待しているのか、結婚をどんなものだととらえているかということについて特に話すことなく、後になって認識のズレに驚いているという状況があります。結婚前や結婚直後の、まだ「何でも話せるような関係」でいるうちに、その関係にもし不満をもっていたら、お互いにどうしてほしいかということについても話題にできるといいのではないでしょうか。そこまであらかじめ話しておくことは難しくても、「話の最中に、相手が(あるいはお互いに)感情的になる」という経験をしながらもコミュニケーションをあきらめず、たとえば時間をおいたり、別のアプローチをしたりという試行錯誤を繰り返してでも、やはりそれでもなんとか理解する努力をしたいと思える相手かどうか・・・結婚前の交際とはその見極めのためにあるのではないかと感じます。

死に直面するという経験

10/11/11

世界を変えたスティーブ・ジョブズが癌のため亡くなってからもうすぐ一週間になります。発明王エジソンなどと同じように「歴史上の人物」として名を残すことになった人ですが、その日以来多くの人が、彼が2005年に行ったスタンフォード大学でのスピーチを改めてシェアしていました。このブログでも「目標を持たない生き方」という記事でこのスピーチに言及し動画を載せたところでした。

彼の人生哲学を形作った数々の要素のひとつとして、禅の考え方が深い影響を与えていることは良く知られていますが、この「死に直面した」という経験もそのひとつでしょう。かなりの確率で助からないから死を覚悟しなさいと言われ、人生の棚卸しをして「本当に大切なことは何か」ということがいやでも明らかになった・・・という経験。先日、夫と観にいった映画「50/50」もこのテーマを扱っていました。タイトルの”50/50”は、フィフティ・フィフティ、つまり「五分五分」という意味で、主人公が宣告された癌の助かる見込みを意味しています。

映画はシリアスなドラマとコメディの要素が絡み合い、深刻なテーマながら悲壮になりすぎず、ストーリーが淡々と展開されていきました。実はこの映画は主人公の親友役をした俳優(Seth Rogen)の実際の友人が25歳で癌になったという経験をもとに作られたのです。

感想を書くとネタばれになってしまうかもしれないので、映画についてこれ以上は書きませんが、多くの人は、病気になったり、身近な人の死を体験することで初めて(あるいは改めて)日常のありがたさを実感します。そして「この生は限られた時間である」ということも。実際に自分でこの死に直面する体験をしない(できない)としても、こういった映画を見たり、体験者の本を読んだり、現実世界のニュースによって、その人の生き様や人生哲学に触れることはできます。時には、今の時間がいつまでも続くかのような錯覚を「そうではない」と気づかせてくれる疑似体験をすることも、スティーブ・ジョブズの言った「自分はいつか死ぬことを忘れずにいる」ために誰もが出来ることではないでしょうか。

キンダー入学を1年遅らせることの意味

09/28/11

アメリカの義務教育は、日本でいう小学1年生の前の「キンダー」という1年間から始まります。このキンダー入学を、子どもの誕生月によっては1年遅らせるという選択をすることができます。例えば、私の次男は11月末生まれなので、来年9月からキンダー入学もできますし、もう1年遅らせることも可能です(このあたりのカットオフの日は住んでいる地区すなわち管轄の教育委員会によって違うこともあります)。まだ1年先の話ですが、最近このことについて考え始めました。

私のもうひとつのブログ「成功する国際結婚の秘訣!「国際結婚一年生」著者:塚越悦子公式ブログ」では何度かこの件について書いています。「キンダー入学を遅らせる理由」「アイスホッケー選手に1月生まれが多い理由」などの記事でも紹介していますが、キンダー入学を遅らせようと考える親には、もちろんそれなりの理由があります。特に、能力がありそうと見るや、より深い学びができる環境を与えようとするアメリカのようなところでは、入学した時点でクラスメートたちの中で一番年が上であることは、一見、子どもに有利な状況を与えているかのように思えます。実際スポーツの世界ではこれは大いにあてはまる仮定なのでしょう。

つい先日、友人がFacebookで紹介していたこちらの記事を読んでみたら、この「遅らせることの利点」に反論する意見が書かれていました。“Delay Kindergarten at Your Child’s Peril”と題されたこの記事では、1年遅らせることが必ずしもよい結果をもたらさないということが述べられています。ほかの子どもよりも少し年上なためにあるように見えるアドバンテージは、小学校が終わるころにはなくなっていき、高校ではこれらの子どもたちは「モチベーションも低く、成績もよくない」傾向にあるのだとか。この傾向について記事の中では詳細に説明されていませんが、想像すると「小学校低学年のうちに、努力しなくてもほかの子より成績がよく、あるいはなんとかなってしまうという状況を経験してきたために、勉強の仕方を知らない(習慣がついていない)」などの理由になるのでしょうか。

1年入学を遅らせた子どもたちが世に出るころには、特に成績の面でも収入の面でも優位ということはなく、しかも社会に出るのが1年遅れるために、生涯に働ける年数(および収入)も1年分少なくなるとも指摘されています。つまり、スポーツの世界に見られるような「1年遅らせることの優位点」が、学業という世界ではそれほど見出せない、と結論付けられています。

また後半部分では年上の子どもがいるグループにいる(入学を遅らせない)ことのよい点として、「より成熟度が高い子どもと一緒にいることで、特に男の子は精神的にも成長できる」とも指摘されています。例えば、3歳から5歳の子どもで上に兄弟がいたら(かつ下に兄弟がいなければ)、兄弟ひとりにつき、半年程度の成長の促進が起こる傾向があるのだとか。我が家の子どもたちを見ていても、確かに次男は長男が日本語の宿題(ひらがなの読み書き)をしていると、横で一緒にやりたがり、まだひらがなをすべて認識していないながらも、鉛筆を持って一緒に文字を書こうとしています。モンテソーリ式の教育でも複数の学年にまたがった学びの状況を与えており、「XX歳だから~をしないと」というのは必ずしもあてはまらないという考え方をとっています。こちらの記事では「学びというのは社会的な状況で起こるもの。自分の現在の能力を少しだけ超えたチャレンジのある状況で、人は一番学べる。自分がクラスで一番物知りという状況があった場合、得をするのは本人ではなくクラスメートである」と結ばれています。カレンダーどおりに次男を来年キンダーに入学させるべきかどうか、少しまた考える材料ができました。

目標を持たない生き方

08/05/11

今年の6月、ポートランドで参加したWorld Domination Summitのスピーカーの一人にLeo BabautaZen Habitsという有名なブログの著者)がいました。彼は、その昔はヘビースモーカーで太っていて借金まみれだったのですが、あるとき一念発起して少しずつ生活を変えていき、今では借金はすべて返済し、シンプルな暮らしをし、マラソンを走るベジタリアンになり・・・という大変化を遂げました。その変化の過程を書いたブログが大変な人気になったのです。そんな彼のプロフィールについては知っていたので、話を聞く前は「どうやって習慣を変えるのか?という話だろう」と予想していました。

実際に講演が始まると、予想通り「新しい習慣を取り入れるには」という話もしてくれたのですが、それとともに、今自分自身が向き合っているチャレンジのひとつとして「目標を持たない生き方」について語っていました。壮大な目標をうちたて、そのためのステップを細分化して毎日の”To Do(やること)リスト”にして・・といった、自己啓発セミナーでおなじみの目標達成手法とはまったく違った提案に少し意外な感じがしました。Leoは、「これといった目標を持たずに、毎日『これをやりたい!』ということだけをして生きることを目指している」と言っていました。

彼の講演を聞きながら「ふーん、そんな風に目標を持たないで好きなことだけやって生活して行けたら、それは確かにいいよね・・」と思ったことは確かです。ただ、今まで私が慣れ親しんできた考え方、つまり「やりたいこと」を決めて、達成したい時間軸を決めて、そのためのステップを細分化して着実にやっていく・・・というのとはあまりにも違う考え方だったので、その時は「そういう考え方もあるだろうが、自分はあまり関係がないな・・」という感じでそれほど真剣にとらえていませんでした。でも、その後7月に入ってから体調を崩し、それまでやっていたように「朝から晩までバリバリと課題をこなす」ことができなくなってから、ふと彼の言葉を思い出すようになりました。

朝起きてから「今日ひとつだけ片付けるとしたら何をするか?」と問いかけ、それだけできればとりあえず「よし」としてみる。ひとつといわず、幾つもこなしたいのはやまやまなのですが、体調というある意味どうにもならない制約がある時、ひとつだけを目標にし、それができれば「今日はOK!」と思うのか、それとも「ひとつしかできなかった・・」と自分を痛めつけるのか、どちらが精神衛生上より良いのかどうかは考えるまでもありません。ひとつでも達成できたことに気分を良くし、感謝し、でもいつかやらないといけないんだけど・・ということはとりあえず紙にでも書き出して「よし」としておく。そのくらい気楽に構えていれば、予定通り出来なかったことに対するプレッシャーのためにますます出来なくなることだけは免れそうです。

Leoによると、「毎日ひとつだけ目標をもつ」ということは、「まったく目標を持たない」の一歩前の段階なのだそうです。体調による制約という、ある意味不本意な状況になったことによって、図らずも「毎日これだけはやりたいと思うことだけを行う」という方向には進んでいるような気がします。多くの人にとってのチャレンジは「毎日やりたいと思うことだけを行う」ということでしょうが、このあたりは、ライフハック的な考え方と、いろいろな「法則」が必ず言及する「感謝の気持ち」を持つことで対応できそうです。もし「やりたいこと思わないことだけで毎日が構成されている」という場合には、このスティーブ・ジョブスの講演を見ることをお勧めします(このクリップは講演の後半部分です)。

日本語が亡びるとき 

05/25/11

これは水村美苗という作家の長編評論で、「英語の世紀の中で」という副題がついています。非常に読み応えがある本でした。斜め読みして理解できる内容ではありませんが、バイリンガル教育に興味がある人にとっては、一読する価値はある本ではないでしょうか。

私は去年初めて「国際結婚一年生」という日本語の本を出しましたが、何人もの人から「英語版はないのか」と聞かれました。国際結婚のカップルの片方は英語を読む人である可能性が高いのだし、英語で書かれていれば、もっと多くの人の役に立つだろう、とも。確かにそのとおりです。この本を読みながら「英語で書かれていれば、読める可能性のある人は比較にならないほど増える」と当たり前のことに改めて気づかされました。

著者は第三章「地球のあちこちで<外の言葉>で書いていた人々」で、このように言っています。

くり返すが、学問とは、なるべく多くの人に向かって、自分が書いた言葉が果たして<読まれるべき言葉>であるかどうかを問い、そうすることによって、人類の叡智を蓄積していくものである。学問とは<読まれるべき言葉>の連鎖にほかならず、その本質において<普遍語>でなされる必然がある。(P144)

非西洋語圏の学者は・・(中略)・・・いったい何語で書いたらよいのか。
かれらは<自分たちの言葉>で書いてそのまま<読まれるべき言葉>の連鎖に入るわけにはいかない。かれらの使った言葉を読める学者は世界に稀である。かれらが書いたものが<三大国語>に翻訳される可能性は非常に低い。さらに、たとえもしかれらが書いたものが<三大国語>に翻訳されたとしても、非西洋語が西洋語に翻訳されたときに失われるものは大きい。西洋語を<母語>としない学者が<自分たちの言葉>で書いて、<読まれるべき言葉>の連鎖に入るためには、<外の言葉>で読むだけでなく<外の言葉>で書くよりほかにない。そのような学者の<世界>への参入は、学問とは、その本質において<普遍語>という<外の言葉>でなされる必然があるという、学問の本然を、今ふたたび、白日のもとに晒すものである。(P147)

ここでいう<普遍語>とは、世界的に通用する言葉、つまり今の時代では英語ということになります。この部分を読んだ時、村上春樹の小説について考えました。彼の小説の多くは英語に翻訳されています。村上春樹のファンは世界中にいますし、日本語以外では英語版の読者が多いのでしょう。でも翻訳という過程では「何かが失われる」ことはほぼ避けられません。先日、コスタメサの紀伊国屋書店で、村上春樹の英語翻訳本についての分厚い本を見かけ、つい手にとってみたところ、主な英語版の「致命的な」誤訳あるいは意訳について詳細なリストが挙げられていました。実際のところ、村上春樹が英語で書く日を待ち望んでいる英語読者のファンもいるのではないでしょうか。私の好きなアメリカ人のブロガークリス・ギレボーに会って”1Q84″について話したとき、「そんなに長い小説なら英語になることは不可能だろう」と彼が言っていましたが、やはり”1Q84″もそのまま英語にするにはあまりに長すぎるので、1巻から3巻までまとめて1000ページほどになるという情報も見かけました。

著者は第6章で「今、漱石ほどの人材が、わざわざ日本語で小説なんぞを書こうとするであろうか。(中略)たぶん書かないような気がする」、また「言葉の力だけは、グローバルなものと無縁でしかありえない」からこそ、日本人で英語でも書ける人は(<叡智を求める人>であればなおさら)英語で書くようになっていく、という危機感を抱いています。日本人が日本語で書かなくなれば、日本語は言葉として亡びるしかないので、そうした事態を防ぐために、第7章「英語教育と日本語教育」において、「学校教育で何を目指すべきか」という論理が展開されていきます。

私自身は、たとえば村上春樹は、いくら英語を不自由なく書くことができたとしても、日本語でも書き続けるだろうという気がしています。すべての人が<読まれるべき言葉>の連鎖に入りたいとは思わないだろうからです。人には誰でも、自分の経験や能力のうち最も人様の役に立つことのできる分野、そして誰のためにそれを行いたいかという対象があります。その意味で「日本語しか読むことのできない人」のために、日本語で書き続ける人はいなくならないでしょう。そうした形で書かれたものが、著者のいうところの普遍的な学問のレベルに達するかどうか、それは書き手以外の人々、あるいは後世の人が判断することです。多くの人が自分の自由意志で好きな分野に取り組み、好きな言葉で書いていった結果として、日本語が今の「地位」を失い、<叡智を求める人>が読み書きできなくなる言葉に「なり下がった」として、人類が文化的に貧しくなるのだろうか?もしそうなるとしても、それはそんなによくないことなのだろうか?という気がしています。長くなりましたので、次回で「国際結婚家庭の選択」についてさらに考えてみます。

Google I/O

05/12/11

今週、2日間に渡ってGoogle I/Oという会議がサンフランシスコで開催されました。この会議のチケットは2月初旬に売り出しになり、夫もこの会議に行く予定で事前に航空券も入手していましたが、発売開始直後からウェブサイト経由で購入を試みたところなんと発売後59分で完売。サイトにものすごい数の人が集中したため、チケット購入画面にたどりつくこともできなかったそうです。今年確か3度目になるこの会議、去年は少なくともチケットが完売するまで数週間はあったということで大丈夫だろうと思っていたのですが、去年のこの会議で参加者全員にアンドロイドというスマートフォンが配布されたこともあり「今年は何が配られるのだろう」という期待が一段と高まっていたようなのです。

私自身は内心「普通はチケット購入してから航空券だよね・・・」と思いつつも、幸いサウスウェスト航空の航空券だったので、もし手を尽くしてもチケットが入手できなければ、フライトをキャンセルしてまた旅行に使えばいいか・・・と思っていました。夫はその後もebayなどオンラインのオークションでチケットを入手できないかと探っていたところ、普通に買えば600ドル程度のチケットが2000ドル近くとものすごいプレミアがついて売られていました。それでもあきらめきれない夫は、4月にGoogleが開催したコンテストについて情報を入手し、2回挑戦。これは、Googleのいろいろなソフトを使ってコンピュータプログラミングの腕を競うもので、初回の課題を30分以内に答え、正解であれば次のステージに進めるという形になっていました。夫は挑戦した2回ともこの最初のステージはクリアしましたが、次のプログラミングの課題は24時間以内に決められたプログラミング技術を使って作品を制作するというもので、それらのプログラムは専門ではない夫は苦戦し、2回とも徹夜で取り組んでいました。結果的には2回ともトップ10に入ることは出来ず、残念な結果に終わりましたが、夫は時間との闘いで製作に取り組んでいる間はとても楽しかったと言っていました。

2回目のチャレンジの時に、夫はアンドロイドを持っている友人のヘルプを求めたのですが、実はこの友人が働く会社でGoogle I/Oのチケットを入手していました。また、偶然にもこの会社は毎年7月にサンディエゴで行われるコミック・コンベンションというイベントのチケットを入手したがっていました。コミック・コンベンションも大変人気のイベントで、こちらのチケットは規則では「転売不可」つまり買うときに行く人の名前を登録させられるのです。チケットはとっくの昔に完売になっており、出遅れたこの会社は夫と同じようにいろいろなコネを使って何とかしようと躍起になっていました。実は、私は去年このコミック・コンベンションで勤務している友人が「日本の漫画家、萩尾望都を招待したいんだけど、手紙の書き方を教えてくれ」ということで、本当に些細ですが手伝いをしたことがありました。この縁で、彼女に「今年のコミック・コンベンションのチケットを購入したがっている会社があるんだけど、何とかできないか」と聞いてみたところ、OKとの返事。これが決め手となり、コミック・コンベンションのチケット購入権利と引き換えに夫はGoogle I/Oへのチケットをついに手にしました。

昨夜サンフランシスコから帰宅した夫は、無料で配布されたタブレットや、これからもらえる予定のクロムOS搭載のノートパソコンについても喜んでいましたが、何より会議をその場で体験できたことが嬉しかったようです。正直なところ、コンテストで1週間のうちに2回も徹夜している夫を見て「よくやるな・・・」と思っていましたが、彼のそのこだわりやあきらめずに頑張るところが、見ている人に「ヘルプしてあげたい」という気持ちを起こさせたのかもしれないと思うと、”Persistence pays off” (粘り強さは成果をもたらす) という言葉が浮かびました。

WHAT =自分のほしいもの・したいことをまずはっきりさせ

HOW= どうやってそれを叶えるか?

なのだな、と。あきらめずに事に当たれば、時には運も引き寄せることができるかもしれない。また、どこでどんな縁があるかわからないので、頼まれごとも出来る範囲で引き受けましょうという、我が家の教訓話として語り継がれるに値すると感じたエピソードでした。

比べないこと

04/27/11

4月ももう少しで終わろうとしています。中旬に体調を崩し、回復に向かっている最中です。ちょうど、親しい友人も調子を崩していたことがあり、彼女に「自分に優しくして」などと助言をしていたときでもありました。「自分に優しく」とは具体的にどういうことでしょうか?

「人と比べることは意味がない」というような言葉を時々耳にします。比べる対象は、目標としているような人であったり、調子のいいときの自分のときもあるでしょう。震災があった直後、多くの人は無意識のうちに、被災者と自分の置かれた状況を比較して「命があるだけでもありがたい」「愛する人が生きているだけでも・・」ということを思ったでしょう。これはごく自然なことです。でも中には、自分が直接被災したわけでもないのに、落ち込んでしまった人も少なからずいたと思います。

2月末に、近所のRock Churchというキリスト教の教会に、ニック・ボイジッチ(Nick Vujicic)という人が、その教会の選任牧師の代わりにミサを執り行うためにやって来ました。ニック・ボイジッチさんは、自らもロング・ビーチというロサンゼルス近くにある教会の牧師です。生まれつき両手両足がない彼は、青年時代にはやはり自殺も考えたほど苦しみましたが、キリスト教のメッセージに目覚め、今では自分の教会を持っています。友人から彼がサンディエゴにやってくると聞いて、家族でこの教会に行きました(大規模な教会で、施設も充実しており、ミサの間子どもたちを預かってくれるのです)。実際にライブで彼のスピーチを見たとき、ニックさんはエネルギーに満ち溢れていました。また、自分に両手両足がないことをネタにしたジョークも連発していました。何と、飛行機の機内で荷物を置く棚に隠れて人をびっくりさせるといういたずらもしたことがあるそうです。これには3階建ての会場満杯の聴衆も大爆笑でした。

ニックさんは、人と比べないことについて語っていました。「僕に会った人は、僕に両手両足がないのを見てみんなびっくりする。そして『ああ、君は大変なんだな。(自分は五体満足なんだから)もう月曜日の朝に仕事に行きたくないなんて文句を言うのはやめるよ』なんてことを言う。でも、僕は言うんだ。『だって、月曜日だろ。無理ないさ』って。」人はみんなそれぞれの現実で生きているわけなので、自分よりももっと大変な状況にある人がいるからといって、自分の悩みがなくなるわけではない、ということを彼は言っていました。自分が不幸でどうしようもないと感じられる時に、大局を見ればそこまで悲観したものでもないよね、とか、もっと大変な人もいるんだから、こんなことで弱音を吐いては・・・という考え方は「正論」だし、それでエネルギーが沸いてくる時もあるでしょう。でも、「もっと大変な人がこんなに頑張っているのに」と比べることによって、さらに「だめな自分」と言う風に落ち込んでしまう時もあるのです。今回気がついたのは、素晴らしいエネルギーを放っている人に触れて元気がでるのか、あるいは余計に落ち込んでしまうのかという違いが、自分の調子のバロメーターになっているということでした。良質の刺激を受けても元気が回復しないどころか、比較してしまってさらに気分が落ちこんでいるときは、もう少し深い癒しや、長い休養期間が必要なのかもしれない、と。そしてそんな時には「人と比べないこと」こそが自分に優しくすることであり、回復の第一歩なのかもしれません。哲学者プラトンもこう言っています。

“Be kind, for everyone you meet is fighting a hard battle.” (優しくしなさい。あなたが会う人はみんな、厳しい闘いをしているのだから。)

「あなたが会う人」の中に、自分自身も含まれています。人と比べることで自分をいじめないように。時には病気になることも自分に優しくしなさいというサインなのかもしれません。